日本整形外科の誕生
今は昔、遡ること100年、明治33年(西暦1900年)の6月、36歳の一人の外科医が時の明治政府・文部省の命を受け、外科的矯正術を研究するためにドイツ・オーストリアに旅立ちました。後にOrthopädieなる語に相当する日本語として「整形外科」という文字を選び、日本整形外科の礎を築いた田代義徳先生その人であります。
東京帝国大学医科大学に整形外科学講座開講
先生は4年後の明治37年3月に帰朝し、その2年後の明治39年5月に独立した整形外科学講座を我が国で初めて、東京帝国大学医科大学に開講されました。
この田代先生が新しく造られた「整形外科」という言葉は、以後日本国内での科の正式名称となり、他の漢字使用国でも用いられるようになったのです。
明治39年10月11日、当時の入沢内科病室の一部を譲り受けて、整形外科病室・医局などが設けられ、同年12月7日には、学生に対する臨床講義も始まりました。
その後、病室は、大正14年より現南研究棟(赤レンガ)、昭和40年より現旧中央診療棟1階を経て、平成13年に現入院棟Aへ移行、また外来は、昭和8年より現管理研究棟3階を経て、平成6年に現外来棟1階へ移行しました。
この間、太平洋戦争中の昭和19年11月には現管理研究棟を病室に当てたため、外来が当時の物療内科木造病室へ移されましたが、昭和20年3月に大規模な空襲を受け全焼し、昭和21年9月に外来・病室が元の状態に復旧するまで、赤レンガ病室の一部で外来診療を何とか続けたこともありました。
本教室は、大正13年田代教授退官の後、高木憲次教授(大正13年〜昭和23年)、三木威勇治教授(昭和24年〜40年)、津山直一教授(昭和40年〜59年)、黒川秀教授(昭和59年〜平成10年)、中村耕三教授(平成10年〜23年)、田中栄教授(平成24年〜)と代々受け継がれてきています。
開講100周年を迎えました
本教室は西暦2006年に開講100周年を迎えました。田代義徳初代教授の創案である、整形外科という名称には「形と機能は相関する」など運動器疾患の本質に対する洞察が込められています。
そして、彼の弟子達は日本の整形外科学を育てる中核となり、日本整形外科学会創立(1926年)の原動力になっていきました。
教室の業績は、田代教授本人による「骨軟化症とくる病の調査」を嚆矢として多くの分野にわたります。今日の形成外科、リハビリテーション医学も、当教室にその源流の一つがあります。
臨床医学方面では、肢体不自由児に対する療育、関節鏡の発明、ポリオの動物モデル、先天性股関節脱臼の治療体系、寛骨臼回転骨切り術、悪性腫瘍に対する局所灌流療法、慢性圧迫による脊髄傷害の機序と治療法、腕神経叢損傷の治療、高精度駆動式創外固定器の開発、イリザロフ法の導入などを挙げることができます。
運動器に関する基礎医学の方面では、1950年代の骨粗鬆症に関する研究を起点に、現在ではノックアウトマウス・疾患モデルマウスを用いた骨粗鬆症や靱帯骨化症の病態解明、アデノウイルスベクターを駆使した破骨細胞の分化・機能発現の分子メカニズムの解明、有限要素法を用いた骨折予測システムの確立などの研究を推進し、世界的にも高く評価されています。
また、我が国最初の整形外科学教室である当教室からは、全国各地の整形外科学教室や肢体不自由児・身体障害者福祉施設の担当者をこれまでに多数輩出しております。